何もかも、既存の「僕」とは大違いの存在に強く魅かれた。同じ場所を走るということも大きかった。
「ゆりか」
声をかける。振り向く。長い長い水色の髪が大きく揺れて端正な顔がこちらを向く。その小さく愛らしい唇から零れる言葉は男勝りで下品で何をも躊躇しない、容貌と酷くかけ離れたものだけれど実はそれがたまらなく好きだったりする。
さて、何故僕は彼女(彼、では花がないので以降彼女と呼ばせてもらおう)の事を「ゆりか」と呼ぶのか。簡単な答えである。彼女自身が他の名を嫌がったからだ。まだ探せば彼女のOKが貰えるような呼び名はあったのかもしれないが僕はこの名が好きだった。
初めて会ったときよろしくの挨拶の跡に「ゆりかもめ」と世間一般の呼称で呼んだ。彼女は何の反応もしなかった。何回か「ゆりかもめ」と呼び続けていたら愛称で呼びたいなぁなんて何と名づけて言えばよいのかわからない感情が溢れて、先ず「ユリ」と呼んだ。すぐさまこけしが飛んできた。どうやらお気に召さなかったらしい。ならば「かもめ?」と聞くと「俺は鉄道だ」とそれはそれは殺気のこもった視線をこちらに投げてきた。あと九州にかもめって特急あるからややこしい。そう言われて、確かにここから遠い南の島を走っている特急を思い浮かべた。
彼女は言う。自分は鉄道だ、お綺麗な花でも空を飛ぶ鳥でもない、と。
その燐とした姿勢に思わず見惚れた。そして妥協案で「ゆりか」と呼ぶ許可が出た。他のみなは彼女を「ゆりかもめ」と呼ぶ。自分だけは「ゆりか」と呼ぶ。時々ふざけて「リリィ」と呼ぶとその度に殺意とこけしとを投げてくるのだがそのスリルも面白い。とりあえず自分の彼女の呼称は「ゆりか」に決定した。甘い喜びが心の中に染み出してくるのがわかった。
新木場でよく顔を合わせるメトロの有楽町を半ば強引に拉致して3人で飲むことも少なくなかった。けれど実は彼女と二人きりで飲んだことは無い。逆に有楽町とならたびたびあった。彼は我を失うまで飲まない。そして自分も酒を飲んでも飲まれることは無く、ただ淡々と仕事の話をしたりくだらない世間話をしたりしていた。彼に酒が入って少しだけ気分が良くなると、しきりに「新線」の話をされた。まだ名は無い「有楽町新線」を彼は表には出さないが高く買っているしそれはそれは大切にしている。ただその新線にはきっと何か形を変えて有楽町の愛情だとかなんだとかは伝わっていると思う。それに気づかない彼は自分より幾つも年上なのに可愛らしく思えた。
そんな彼を飲みに誘うと今日はいやに素直についてくる。普段なら業務に差し支えるからだとか新線が待ってるからだとかで5回に1度の確立でしかついてこないのに。
そしてその日彼は珍しく荒れた。マイナスのスイッチが入ったのか、僕たち「鉄道」には避けられない話題を持ち出した。そう言えば彼は今日は遅延していた。原因は勿論。
「新線に、こんな思いはさせたくない」
彼は苦いものを飲み下すような表情で言った。「有楽町線遅延」そんな情報が入ったのは昼頃。乗り入れしている自分もそのダメージを受けて遅延した。そんな事もあって飲みに誘った、わけではないのだがそういう事にしておこう。ゆりかは来なかった。
『人身事故』
その原因は様々であるが結果として残るのは「人を撥ねた」という苦い事実だけだ。運良く助かるものもいるが、そんな事は稀であり、自分たちはかつて人だったものを片付けて線路や車体を洗い流し利用客のクレームをただ受け、そして場合によっては振り替え輸送を頼みにまわる。
ああ、なんて嫌な出来事だ。誰も得をしない。あるいは得をする人間がいるのかもしれないが、そんな人々は自分の知り合いにはいなかった。心を痛め、それでもまた走り出さなければならない仲間しか知らなかった。そしてその痛みは風化しない。それが何よりも苦しい現実だ。
「なぁりんかい、新線もこんな思いを味わうのか」
それは問いであって問いではなかった。新線の開通予定駅には一応ホームドアが計画に含まれているがそれは完全に人が立ち入れないものではなく、そして路線には地上部分を走る場所もあった。可能性が0になることは決してないと、有楽町自身が痛いほどわかっていた。それでも口に出さなければいけないくらい彼に今日の出来事は応えたのだろう。
ふと、自分の片割れのような存在を考える。同じ場所を走る彼女の事を考える。
彼女のホームドアは線路全体を覆うもので、走る路線はどこも地上から高い所ばかり。そういえば彼女が人身事故を起こしたという話を聞かない。彼女の設計はどこまでも事故を防ぐためになされている。
以前彼女は自分の事を鳥ではないといった。けれど自分には、彼女には翼があるように見えて仕方ないのだ。東京の空は、航空のものではない、彼女のものだと馬鹿なことを何度も考えていたのだ。
その翼は白いままだ。
へし折って引きずり倒して汚してやりたい。残虐な一面が顔を除かせる。違う、そんな事したくはない。だって。
そんな事で彼女が汚れるわけがない。
わかりきった結論がいつも僕を安心させる。そして残虐性は消えてゆく。ああ、ゆりか。君はいつまでも強いままでいて。それが僕のわがままに過ぎないことは十分すぎるほどわかっているけれど。それでも願う。僕は愚かな生き物だ。そして今目の前で暗い顔をしている有楽町だって、愚かな生き物だ。鉄道として生きていくならば避けられないことを溺愛している新線には体験させたくないなんて妄言を吐いている。そうだ、僕たちは愚かで卑怯で少し狂っているんだ。
そんな僕を捨てないで、ゆりか。
強い願いのようなその感情が、僕の胸を焼かないことは無い。
私の上に降る雪は
いと貞潔でありました
中原中也/生ひ立ちの歌