知らないはずなのに、知っていた。おかしな話だ。けれど確かに目の前の少年には見覚えがあって、その名前すら耳に馴染んだものだった。その事を彼に言った事は無かった。ただ、二人の空間は心地良かった。それだけだった。


「黒木」
小学生の間ずっと呼んでいた呼び名を変えたのはわざとだった。他のヤツラみたく庄ちゃん、とは呼べはしなかったけれど僕は庄左ヱ門で庄左ヱ門は彦四郎で、それで良かったのに。仲良くやっていた。それで、良かったはずなのに。
「なんだい、彦四郎」
何もなかった風な顔でいつもの表情をこちらに向けるこの少年はこの春から地元の公立中学校に進学する。僕はというと電車で二つ三つ駅の離れた中高一貫の私立中学へ進学することを決めたばかりだ。ずっと公立と私立とで悩んでいた。合格通知はある。中高一貫の私立の学校は偏差値がそれなりに高くて高等部からの編入は難しい。もしその学校に確実に入りたいのならば少しは易い中等部から皆目指す。所謂進学校でかつ中々の名門校である。周囲は何を悩むことがあるんだという風に口々に言った。
「・・・なんでもない」
ねえ、庄左ヱ門はどっちがいいと思う。自分で決断を下せなかった僕は愚かにも彼に選択をゆだねた。返ってきた言葉はあたりまえだけれど「彦四郎が決めたらいい」というシンプルなものだった。その時何故か、僕は酷く裏切られた気分がした。お前なんて別にそばにいなくてもいいんだ、と言われた気がしてならなかった。何で悩んでたか知ってる?お前と学校が離れてしまうのが嫌だったんだよ。


その日から僕は「庄左ヱ門」を「黒木」と呼ぶようになった。
ささやかな意趣返しのような気持ちだった。ただ計算外だったのは、黒木、と呼ぶたびに重いもやもやとしたものが自分の心に積もってゆくことだった。
残念だったね、もう少しで違う道を歩めたのに。お前達が思い描いた「仲の良い二人」になれたのに。12の歳まで保てたのに、また崩してしまうの。
よく「夢」に見る、どこか遠い昔の「僕」が泣きそうな顔で笑う。その僕は随分年上で髪が今よりうんと長くて女の子みたいにくくっていたけれど、「僕」だとすぐに分かった。


どうしてそんなに悲しそうなの。

お前が約束を忘れてしまったからだよ。

約束?

そうだよ、僕と僕の約束だよ。



その夢は今までに無いくらいクリアで、いつまでも頭に残った。普段は夢を見た、という記憶くらいしか残らなくて内容なんか覚えていないのに嫌に鮮明だった。約束、という言葉が引っかかる。僕との約束。意味がわからない。けれど絶対に忘れたくない事だった気がする。何だろう。そう思いながら真新しい制服に袖を通した。新しい学校の入学式だった。
黒木、と呼び始めてから庄左ヱ門と一緒に学校に通うことが無くなった。すぐに卒業式がきて春休みがきて、いつもなら休み中は互いの家で遊んだりするのに一切会わなかった。気まずく思いながらも学校が違うということで一種の安堵はあった。卑怯者だという自覚もあった。そんな僕を嘲笑うかのように、駅までの道のりで私服の庄左ヱ門と遭遇した。何で、と思ったけれど、そうだ公立の学校とは入学式の日取りが違った事を思い出す。
「おはよう、彦四郎」
新しい学校の制服、似合ってるよ。いつもの笑顔で彼は笑った。僕がこの休み中、何度後悔したか分からないのに平然と笑う彼を見て、そうだこいつはいつも冷静でマイペースだったと改めて思い出す。
「・・・・・・おはよう、黒木」
うまく笑えただろか。僕は庄左ヱ門ほど図太くはない。彦四郎が決めたらいい、とあの日の言葉が今でも刺さる。ねぇ、学校、離れちゃったよ。寂しく、ないの。
「永遠の別れじゃないだろう。いつでも会いに行ける。だってあの時代じゃない」
そう言って、僕の心の声を拾って、彼は笑った。何のこと。僕の声が何か聞こえたの。あの時代って。もしかして庄左も何か覚えているの。
聞きたい事はたくさんあったのに彼が遅れるよ、と言うから時計を見たら遅刻ギリギリの時間になっていた。時間が止まればいいのに。話したいことがたくさんあるのに。仕方なく僕は駅に向かった。久々に会ったせいか酷く彼が懐かしい。

ねぇ、僕は。六年前の入学式の日、桜吹雪の下でお前に初めて会ったけれど。初めて会った気がしなかったんだよ。どうしようもなく懐かしかったんだ。あの頃は懐かしいって感情がよく分からなかったけれど。
何でだろうね。
ねぇ、こんな事言ったらお前は笑うかな。・・・笑うね、絶対。
そうだ、お前が僕の前で泣いてたらこの事話してもいいな。そしたら笑うだろう。荒唐無稽な話だねっていつもの顔で笑って。でもお前が泣くとこなんて見たくないからこんな事話す日は来ない方がいいな。

僕は僕と何を約束したんだろう。電車に揺られながら六年前と変わらない桜吹雪を見つめた。



長い永い夢をみている












2009/11/23