とうに学園を卒業してしまった先輩が珍しく訪ねてきた。先輩は相変わらずだったので僕も相変わらずお茶をたててもてなす。
「相変わらず美味だな、庄の茶は」
お褒めにあずかり光栄です、と本心を述べながら目の前の相手の様子がおかしいことに気づいた。
「何か、ありましたか」
直球で尋ねる。僕はこの先輩のこととなるといつも余裕がなくなるのだ。
「…まだだったよな」
ぼそりと先輩が呟く。あまりに声が小さすぎて前半がうまく聞き取れない。
「すみません、うまく聞こえなくて」
そう正直に言うと、珍しく少し顔を赤らめて彼はやはり小さな声で言った。
「…色の実習は、まだだったよな」
ここでいう色は無論色事のことだ。
「まだです」
恥じることなどないと思っている自分は誰かと肌を重ねた事すらないと、事もなげに言った。先輩は少し驚いた顔をしてそして安堵の表情を浮かべた。
「庄はもてるだろうに」
確かに恋文などは何度か貰ったことがあるけれど兵大夫なんかにはまるで敵わないし、すでに心に決めた相手が居ると言うと表情の少ない彼の顔が少し曇った。
「そうか、思い人がいるのか」
ええ、と頷く。そんな自分に彼は自虐的な笑みを浮かべながら思いもかけないこと口にした。
「私は庄の初めての相手になりたくて来たんだ」
笑って構わないぞ、と彼は言う。けれど笑ってなどいられるものか。彼は今何と言った?
「先輩はもちろん色事なんてとっくに経験済みですよね」
声音が冷たくなったのが自分でもわかる。
「ああ。全て仕事のようなものだったけれどね。抱いた事もあれば抱かれたこともあるよ」
彼は自嘲気味に笑う。僕は感情の何かが焼き切れる音を聞く。
「浅ましい薄汚れた私の体だ。それでも庄が誰かに触れるのがどうしても許せなかった。」
想い人がいるのならば悪いことを言ったな。犬に噛まれたとでも思って忘れてくれ。そういって立ち去りかけた彼の胸倉を掴んで強引に口づける。ああもう背なんてとっくに追い越していることに今更気付いた。
「まさか気付いてなかったなんて」
噛み付くように口づけた後、乱れた呼吸で言った。あんなに人の感情の機微に聡い人が僕のぎらぎらとした醜い欲望に気付いていなかったなんて驚きだ。
「僕の想い人は一年のときから、初めて貴方を見たときからずっと貴方だ」
信じられない。そんな表情を彼は浮かべていた。僕は熱っぽい声のまま続ける。
「貴方に追いつきたかった。貴方に触れたくて仕方なかった。貴方以外に触れる気なんて毛頭なかった。」

僕の全ては貴方だ。

彼は初めて僕に涙を見せた。信じられない。完璧に混乱の表情でこちらを見る。信じられないのは僕のほうですよ、と笑った。



先輩は酷くして構わないのにと言ったけれど、何年も想いを寄せた相手にそんなことが出来るわけがない。ことさら壊れ物を扱うように、無茶苦茶にしてやりたい衝動をこらえながら初めて触れた肌は細かい傷が多かったけれどしっとりと手に馴染んだ。
「ねぇ、庄」
熱い吐息を洩らしながら先輩が初めて安堵の様な頬笑みを見せる。
「私は、ね。夢なんて叶わないと思っていたよ。」
それは悲しい独白だった。生まれがそうさせたのか、天才との呼び名がそうさせたのか、彼の心は孤独に満ちていた。彼と同学年の他の先輩方何人かは彼を特別視しなかったけれど、それだけで埋められるほど彼の孤独は温いものではなかった。自然と、四つも年の離れた自分にもそれはわかった。「鉢屋は天才だ。だが化け物のようで気味が悪い」そんな言葉を聞いたのはいつだっただろうか。何度似た言葉を聞いただろうか。その言葉達は僕の心の奥底を深く深くえぐった。
「いつも諦めていた。望む事などおこがましいと思っていた。けれど」
庄だけは、諦められなかったんだ。
一気に顔が赤面するのがわかる。優しくしたい、そう思っていたのに気がつけば乱暴に口づけていた。
「僕は、先輩だけが欲しかった。他に何もいらないと、熱病に浮かされたみたいにいつも思っていた。諦められなかったけれど、けれど先輩に迷惑をかけるといけないと思って感情に蓋をしました。先輩に傷をつけるのはたとえ僕でも許せなかった」
そう一気に言うと切なげな表情が、少しだけ意地悪な表情になった。
「馬鹿だな」
庄がつけた傷ならば、私はそれはそれは喜んだだろうに。
熱い吐息交じりの告白は鈍器で殴られたかのように頭に響いた。
「…優しく、出来ないかもしれません。先輩がそんな事を言うから、いけない」
理性は限界。我慢も限界。優しくしたいのに、傷つけたい。僕は僕の内に眠る暴力性に気付いて、そしてそれが目の前の彼を傷つけるかもしれないと怯えていた。けれど彼は言う。消えない傷を残してくれ、と。
「最初から言っている。庄がつける傷は私には甘美な蜜だ。庄のその暴力性は私には何にも代えがたい褒美だ」

私しか知らない庄を見せて。

彼の口が回るのは相変わらずで、そして確実に僕の精神を侵して行く。もっと彼の本性を聞きたい。焦がれてやまなかった彼に今触れている現実を確実に感じたい。強く強く抱きしめると背中にまわされた手によって少しだけ痛みが走る。これは現実だとその痛みが教えてくれる。お互い、馬鹿になっていた。後は行為に溺れるだけだ。細い体を組み敷いて、乱れるその様を熱に浮かされた頭は艶やかな花の様だとぼんやり思った。時折漏れる声をもっと聞きたいと思った頭はその音が何よりも心地の良い音だと感じていた。

例えば。
体を重ねる事。それだけでここまで高揚できるだろうか。それは否だ。思い続けた相手を蹂躙できる喜び。それが僕の暴力性を高める。むしろそれだけが、がっしりとした鉄の蓋をあけさせる。理性と言う縛りをいとも簡単に解かせる。
好いた惚れたなんて次元を飛び越えて、目の前の彼がどうしようもなく愛しい。そう言うと彼は見た事もないくらい真っ赤になって、涙を零して笑った。私はなんて幸せ者なんだ、と泣きながら笑ってすがってくる彼を、手放すものかと思った。その為には何だって出来ると思った。



世は乱世。何が起きるともわからない。
今日笑い合った友が明日消えてもおかしくない。この学園には見せかけの平和が満ちている。けれど一歩外に出ればそのまやかしはすぐに霧散するだろう。
そんな世の中で、それでも守りたいと思っていたものが腕の中に落ちてきた。二度と離すものか。心の内のどす黒い感情を湛えた僕が言う。この手を離すな。離せばきっと戻ってこない。それならば縛り付けてしまえ。恋情で、愛情で、感情で、がんじがらめにしてしまえ。
もちろん僕もそのつもりだ。その瞬間から認めたくなかったどす黒い感情は僕のものになった。そして僕の元に落ちてきた彼もそれを望んでいた。それならば遠慮などするものか。見えない頑丈な鎖で僕の首と彼の首をつないでしまおう。その感情すら彼は至福だと喜んで受け入れた。

恋人同士。そんな甘い関係はいらない。両者が求めていたものは明らかに依存で、そしてそれがどうしようもなく心地よかった。傍から見れば歪でも、これが僕の誠意であり彼の愛情であった。

うっすらと涙の跡を残して眠る彼を眺めながら誓った。この学園で学べる事は、全て余すことなく吸収してやる。取りこぼす事など許さない。そして彼を守れるまでに、成長してやる。「天才」を守り抜くと無謀な決意をしたその日は朔の夜で、心の内をそのまま映し出したような真っ黒な空だった。


 
 
狂気であ








(タイトル→ルネサンス期の言葉)
2010/02/26